OEM製造
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Company Profile
我社の存在する意義は、仕事を通じ、社員の生活の豊かさと心の豊かさを追求することにあり、 社員の夢や希望を叶える場所である。夢や希望を追及する人間集団が稼ぎ出した成果の半分を社会に還元し、 社会福祉に役立てていただき、幸せの社会を実現する。それが、我社の目的であり、存在する意義である。
幡豆郡一色町のほぼ中心、名鉄三河線の「三河一色駅」からさほど遠くない繁華街の裏手の一角に「安休寺」と いうお寺がある。いまから凡そ百数十年前、この門前に通称「かまぼこ文吉」という人物が在していた。 この頃の一色は、いま同様に豊かな三河の海で獲れる幸で、おおいに栄えた半農半漁の町だった。 競の始まる朝一番、魚市場の賑わいは、おそらくいま以上の活気に溢れていたに違いない。とろ箱に山と 満たされ、いまにも飛び跳ねて逃げんばかりの活きのいい魚や貝や海老、そんな中に混じって体長数センチの 桜色した小海老があった。
しかし、威勢のいい競り声の中にあって、心なしかこの海老だけはなぜか他の魚介類のときよりも光彩を 欠くようだった。それにはちょっとした理由があったのである。「アカシ海老」は古くから三河湾で漁獲されてき た海老だったが、当時、国内で食用としての需要は振るわず、その一部は乾燥加工され「カジエビ」の名のもとに 隣国に輸出されていたのである。 しかも、中国ではこの乾燥海老を煎餅に入れて加工し、再び日本へ輸出していた。 それは、庶民の手の届かないとても高価な煎餅だったという。
ちくわや蒲鉾等のねり物の製造を生業としていた文吉はある日、高価な中国産の「えびせんべい」を口にして、 一念発起の思いで、純国産、純地元産の「えびせんべい」の製造に取り掛かったのである。 文吉はおそらく、毎日のように漁港に水揚げされる「アカシ海老」の山を眺めて、「地元で何とかならないもの か」と思い詰めていたに違いない。そして、文吉の国産「えびせんべい」創案からさほどの時を経ず、画期的とも いえる海老の多量処理の工夫をしたのが、伊勢富田の地か来住した通称「ひげ貞」である。 ヂェカラシ蒸し器で多量の海老を処理し、包丁で細かく切ってから澱粉にまぜて焼く、この方法によって「えび せんべい」は量産の道を開いたのだった。
「えびせんべい」の創始者「文吉」、そしてそれを世に広めた「ひげ貞」、この二人の先駆者たちは、果たして 明治中期から九十余年を経た今日の、「えびせんべい産業」の盛況を想像することができていたのだろうか。